2025年


ーーー8/5−−−  エアコンを導入


 自宅の食堂兼居間、ロビーと呼んでいる部屋に、エアコンを設置した。工事を申し込んだのは7月初めだったが、注文が混んでいて、工事が実施されたのは7月31日。その日も、予定された時刻が近づくと、業者から遅れるとの電話が入り、ようやく現れたのは夕方5時過ぎだった。この夏は、猛暑のためエアコン業界は大忙しの様子である。

 これまで、自宅にエアコンを設置したのは、4年前に一台、この6月に1台の計2台。いずれも孫たちが来た時に泊まる和室だった。食事をしたり、くつろいだりする部屋にエアコンが入るのは、今回が初めてのことである。私は、車のエアコンすら使いたがらないくらいエアコンに不慣れなので、導入に消極的だったが、都会から来る家族、とりわけ出産のために里帰りしている次女が暑くて辛いだろうとの配慮から、設置することが決まった。

 設置した当日、大阪から長女と孫娘二人が帰省した。これで、普段は私とカミさん二人だけの我が家に、長女とその娘二人、次女とその娘が加わり、合計7人となった。ちなみに、その中で男は私一人である。この人数だと、人間の熱だけでも暑くなったような気がする。

 設置が終わって試運転に入ったエアコンを、そのまま使ってみた。私にとって、自宅の居室をエアコンで冷やすのは、初めてである。機械の性能が良いせいか、それともこれが普通なのか分からないが、すぐに涼しくなった。これは凄いと思った。しかし、しばらく様子を見るうちに、ある事に気が付いた。それは、窓を閉め切っているために、屋外の気配が感じられないということであった。

 窓を開けていれば、虫の声や、木の葉のざわめきが聞こえる。窓から入って来る夜風に乗って、木や草の臭いもする。そういう気配が全く感じられなくなり、外界から隔離されたような感覚になった。それが異様な感じだと述べたら、エアコン慣れしている帰省家族は「冬だって窓を閉めるから同じじゃない?」と言った。そう言われれば、屋外から遮断されているという意味では同じである。しかし、明らかに何かが違う、と思われた。

 冬のこの地は、枯野が広がり、時には雪に覆われる。生命活動が感じられない、死の世界のようである。暖かい室内は、その厳しい自然から守られているような安らぎがある。それに対して、夏の屋外は、旺盛な生命力に溢れている。その外界から隔離された冷房室内は、まるで逃避の場所であり、孤独な不安のようなものを感じるのだ。

 冷房が効いた部屋から出ると、同じ家の中でも、暑さが襲ってくる。これも、今さらながらだが、新たな気付きだった。冬でも、暖房が効いた室内から屋外に出れば、寒さに襲われる。しかし、防寒着を着れば、寒さをしのぐことができる。冷房の場合は、外に出て暑さにさらされた人間に、それを防ぐ手段は無い。

 熱は温度が高い方から低い方へ流れる。エアコンはその自然の法則に反している。つまり不自然なのである。ストーブによる暖房は、燃料を燃やして熱を発するのだから、人為的な現象であっても、不自然では無い。燃料の逆の物質、すなわち何らかの作用で熱を吸収する物質は、氷や雪のように、それ自体温度が低い物質以外に、自然界には存在しない。

  最近のニュースなどでは、「我慢せずにエアコンを使いましょう」などと言う表現が流行っている。これも何だか変な表現である。「我慢せずにウチワを使いましょう」などと言う表現は、過去に聞いた事が無い。やはりエアコンは、不自然なのである。




ーーー8/12−−−  絵日記の花火


 小学校低学年の頃、夏休みの絵日記に、花火を見たことを書いた。

空に打ち上げられた花火が開いている場面を絵に描き、その下に文章を書いた。

「ドーン、花火がなった。ぼくはおどろいた」 これだけである。

それが我が家の中でけっこう受けて、親から何度も褒められた。それで、記憶に残っている。別に褒められるほどの物では無いと思うが。

たしかに、「花火がドーンとなったので、ぼくはおどろいた」では面白みが無い。事実を描きとめただけの文章である。日記だから、それでも良いだろうが。

それにしても、花火の綺麗さとか、華やかさとかの、視覚的な事には一切触れずに、音のことだけを取り上げている。見たことは絵に描いているから、言葉で表現する必要は無いと思ったのか。

自分の事ながら、子供の感覚というものは妙な物だと思う。




ーーー8/19−−−  ガソリンに砂糖


 仲間で管理をしているマツタケ山の麓に、用水路があり、エンジンポンプで水を汲み上げて、灌水に使っている。最近、そのポンプの調子が悪くなった。エンジンの回転が不安定なのである。

 いったいどうしたのかと、皆で協議をしていた時、自動車整備士のA氏が 「現場を通りかかった者が、いたずら、嫌がらせをしたのかも知れない。砂糖でも入れられたらヤバいぞ」と言った。

 それを聞いた一同は、「サトウ、ですか?」と聞き返した。するとA氏は「ガソリンに砂糖を混ぜて運転すれば、間違いなくエンジンは壊れる」と、自信ありげに言った。実際過去に土木作業用の機械などでそのような事例が有ったと言う。乗用車の場合は、給油口に鍵が掛かっているから、そのようないたずらは出来ないが。

 初めて聞く者にとっては、驚きの話である。何故砂糖にそのような効果があるのか、身近にある物質の中で、特に砂糖が効くのか。

 ネットで調べてみたら、いろいろな説があった。砂糖はガソリンと混ざらないし、燃料フィルターで濾されるから問題無いと言う説、つまりそのような話はデタラメだという説があった。逆に、砂糖をガソリンに入れてエンジンを壊すイタズラは、昔からよくやられていた事であり、戦後米軍のジープにそのようなイタズラをするのが流行った時期もあった、との説もあった。

 まあ、専門家のA氏の発言を正しいと見ることにしよう。それにしても、砂糖とは・・・




ーーー8/26−−−  作動しないボタン


 マツタケ山に、灌水用の給水タイマーを設置している。給水タイマーとは、タイマーとバルブが組み合わさった装置で、セットした時刻にセットした長さの時間だけバルブが開いて通水するものである。

 山上の雨水タンクに溜まった水を、サイホンで抜き、数メートル下までホースで引く。ホースの末端に給水タイマーを接続して、毎日決まった時刻に、所定の時間だけ給水する。水を流す先は、マツタケのシロである。タイマーは電池式で、シーズンの初めに新しい電池を入れれば、終わりまで問題無く作動するはずだった。

 先週の土曜日、山の整備作業のついでに、私が担当をしている灌水設備を点検した。登り口から標高差150メートルの場所である。他の作業のための工具や資材を載せた背負子は10Kgを超える重さ。猛暑日の暑さの中、急斜面を登って現場に着いたら、思いの外疲れていた。

 まず雨水タンクを見た。9割ほど水が溜まっていたので、これは良い状態。次に、サイホンの出口でホースを外して、勢いよく水が出ることを確認した。これは、タンク内のサイホンのフィルターが詰まっているかのチェック。これも良好だった。そして、ホースに沿って数メートル下がり、給水タイマーの作動をチェックしたが、これは異常だった。

 タイマーは、正面のパネルのボタンで設定を変えることができる。また、手動の水やりボタンがあり、それを押せば随時水を流す事ができる。そのいずれのボタンも作動せず、液晶画面は黒いままだった。シーズン初めに、メンバーのT氏が電池を交換したとの事だったが、意外に消耗が大きく、電池切れになったのか。この大事な時期に、給水タイマーが動かなくては大いに困る。翌日にまた登ってきて、電池交換をしようかとも思ったが、裏蓋の取り外しに工具を要し、現場での作業に不安を感じたので、タイマーを外して持ち帰ることにした。サイホンを止め、ホースからタイマーを取り外して、背負子の籠に入れた。タイマーの大きさは、弁当箱くらいのものである。

 2時間ほど後、分散して作業をしていたメンバー4人が集合し、一休みしてから下山することになった。その時私は、タイマーの電池切れを報告した。するとT氏が、「シーズン初めに電池を換えたから、そんなはずは無い。電池の残量はどうだったか?」と言った。私は現物を取り出して見せ、「この通り、全く作動しないから、電池残量も分からない」と応えた。

 T氏はタイマーを手にしてしばらくいじった後、「ちゃんと動くじゃないか。電池残量も十分だ」と言った。私は「えっ」と思ってT氏の方を見た。氏は、タイマーのパネルを覆っていた透明なカバーを開き、ボタンを操作していた。それを見て私は言った、「わたしゃ、カバーをしたままボタンを押したつもりになっていたよ。それじゃあ、作動するはずが無い」。一同が呆れ顔になったのは、言うまでも無い。

 現代は、タッチパネルなどというものが、そこらじゅうの電気製品に使われている。ボタンやアイコンに触れただけで、スイッチが入ったり切れたりする。その動作を指先に感じる事が無いままにである。私は、「そんな物に惑わされて、こんな間違いが起きてしまうのだ」、と言い訳をしたが、誰も取り合ってはくれなかった。